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2011.09.28

NO.70「東電・福島第一原子力発電所」- 今だから話そう -


監査役A:2011年9月18日(日) と25日(日)の夜10時からNHKのEテレで放映された「シリーズ 原発事故への道程」はご覧になりましたか?

監査役B:はい。『原子力政策研究会』で議論された内容の録音テープから起こして、音声を添えていたので信憑性が高まりました。その上、登場人物は、1980年代から90年代にかけて、日本の原子力発電を支えてきた研究者、官僚、電力業界の重鎮が原発政策の過去と行く末の議論をしていましたね。

監査役A:当初、内輪の議論だから議事録は公開はしないと決めていたので、当事者は本音で語っているようでした。それに加えて、当時の関係者は福島原発事故の反省から、その内幕を率直に証言していましたね。
番組の内容を並び替えて、時系列に振り返ってみましょう。

監査役B:日本でも第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していたが、敗戦でGHQにより核研究施設は破壊され、核分裂研究は一切禁止された。それが1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力に関する研究は解禁された

監査役A:解禁以前の1948年に原発の情報を日本に持ち込んだ人がいた。それはA級戦犯容疑を解かれた後藤文夫と岸信介。「巣鴨プリズン中で向こうの新聞を読んでいたら、あっちでは、原爆を使って電力にかえる研究をしている」と話している。

監査役B:1948年ですか、かなり早かったのですね。

監査役A:5年後の1953年12月8日、アイゼンハワー米大統領は国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」の演説を行い、核軍縮を唱え、原子力の平和利用のために国際原子力機関(IAEA)をつくろうと世界に呼びかけている。従来の独占、秘密主義から原子力貿易の解禁、民間企業への門戸開放へと切り替えた。

監査役A:これをとらえてマスコミは国民に原子力の平和利用を印象づけるキャンペーンを始めた。例えば、1954年から読売新聞は原子力発電の将来性を紹介する連載記事「ついに太陽をとらえた」をスタートさせています。

監査役B:原子力の平和利用博覧会というのもありましたね。
マスコミと言えば、電力各社が「安全」PRを全国紙を使って行いましたが、新聞社にとっては莫大な収入源になった。そのため危険性などマイナス情報については筆が鈍ったようですね。

監査役A:1958年にアメリカの原子炉メーカーGE、ゼネラルエレクトリック社は、日本の各電力会社の若手社員をアメリカに招待している。
このような「招待」は要注意ですね。

監査役B:各社から選抜され、代表で参加した若い社員ですから、使命感というか、導入しようという気持ちを高めて帰国したことでしょう。

監査役A:安全性など眼中になかったのでしょう。

監査役B:兎に角、参加した若手社員は、帰国後、各社で原発導入の中心的役割を果たした、と言うか、そのような人を派遣するでしょう。

監査役A:福島県は、既に1960年から日本原子力産業会議に加盟し、原子力発電事業の可能性について調査を実施。つぎの3か所を選定していますね。大熊町、双葉町にまたがる地点、 双葉町、浪江町。

監査役B:福島第一原発1号機の設置許可申請書は1966年6月1日に提出、6ヵ月後に許可。1967年9月に着工、営業運転は1971年3月。原子炉はGE製でした。

監査役A:東電がGEのものを採用した理由は「経済性の高さだった」と元東京電力社員で福島第一原発の建設に関わった豊田正敏さんが証言。GE側は、スペインで同型の炉を受注しており、同じ炉なら安価になると説明していた。

監査役B:元原子力安全委員長の佐藤一男さんの証言発言が気になりましたね。
「産業界、官界、学界のトップには、国民に余計な不安を抱かせるので、安全ということは口にするな、と言われ、言えば村八分にされた。「安全研究」は陽の目を見なかった。疑問を抱くことすらタブーだった」と証言。

監査役A:その後、高度成長により電力需要は増大し、原発への期待が膨らんできた頃、1972年(昭和47年)田中角栄の「日本列島改造論」が登場し、経済格差を縮小するために、原発を地方への立地を進めようと1974年、電源三法を成立させた。これらの法律の主な目的は、電源開発が行われる地域に対して補助金を交付し、これによって電源の開発の建設を促進し、運転を円滑にしようとするものである。
 この法律の中に原発の立地は、非居住地域で周囲に都市がないこととの指針が示されている。

監査役B:1974年9月1日、原子力船むつが、青森県沖の太平洋上で行われた初の原子力航行試験中に放射線漏れが発生。この事故で原子力の研究開発方針を企画する原子力委員会が安全規制も担当していたことに批判の声が上がったのでした。

監査役A:事故は東電の福島第一原子力発電所にも多く、そのため稼働率は、1970年には74%でしたが、1975年には42%になった。この状況について経団連の土光さんからアップの要請があった。

監査役B:アメリカでは、1979年3月28日にスリーマイル島の事故がありましたが、その学術シンポジュウムが日本で開催されたが、原発反対の学者は除外されたようですね。

監査役B:事故は、東海発電所に先立ち導入された研究炉JRR-1でも運転開始直後からさまざまなトラブルが続出。現場の技術者が、手探りで解決していかなければならなかったと、元原子力研究所職員の神原豊三氏のテープの証言がありました。

監査役A:「シリーズ 原発事故への道程」は、「安全」は誰のための安全であったのか、厳しく問い直されている・・・と結んで終わりました。かつてとは異なり、情報は多種多様なモノが充分にインターネットなどから入手出来るようになったので、我々は、よく考えて行動しなければなりませんね。

監査役B:企業のエゴで人々の幸せを奪うと言うことがあってもいけません。
例えば、「マーク1型」の脆弱性は、米国では1970年代から認識されていて、1989年には「緊急通気弁」を米国内の「マーク1型原発」に取り付けることとなった。しかし、日本では色々な理由を付けて改善を図らなかったということがありましたね。■

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